パンフレット・チラシ・HP・宣伝ムービーまでを高品質なデザインで戦略的にアプローチ。
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■ゴッド ピクチャーズ[GODPictures]
■大 神 浩 二(オオガミ コウジ)
■http://www.godpictures.jp/
■info(gp)godpictures.jp
※(gp)を@に置き換えてご送信お願いします。
■〒812-0042 福岡県福岡市博多区豊1-6-25-203
■Tel・Fax:092-483-2135
■環境:Intel iMac+MacBook Pro+脳みそ
■OS:Mac OS 10.5
■使用ソフト
Illustrator CS3、Photoshop CS3、Strata3D CX5.5
Flash CS3、AfterEffects CS3、Dreamweaver CS4
Painter Essentials 4
■使用カメラ
CANON EOS 5D Mark II、CANON XF100
マイプロフィール
1973年 北九州市小倉北区にて誕生
■学歴
1989年 中間市立中間南中学校 卒業
1992年
九州産業大学附属九州高等学校
卒業
1994年
九州造形短期大学
卒業
■職歴
マネキン製作所・ガラス職人・ゲーム会社・印刷会社・デザイン会社等で様々な経験を積む。
2005年2月に独立。
ゴッドピクチャーズ
始動。
社名の由来は学生時代のあだ名「ガミ(大神だから)」から取ったゴッド(神)と3DCGアニメで影響を受けた
ポリゴン・ピクチュアズ様
のピクチュアズ(ピクチャーズ)を頂き社名としました。
■弊社サービス内容
お客様のご要望・満足に対して、
ワンストップ
でサポートできるよう、広告・HP・映像制作(flashアニメーションも可能)・写真撮影、印刷手配の5本柱にてお応えいたします。弊社は長年の経験から培った合成加工技術には定評を頂いております。複数の人物写真を切り抜き、一つの絵に違和感なく仕上げたり、髪や肌・目の色調を変えたり、人物のイメージに合わせて背景を3DCG等にて制作したビジュアルアート等、バリエーションは豊富です。デザイン・イラスト制作に関しましても、様々なタッチ(アナログ・ペン画・デジタルイラスト・墨絵・リキテックス等)での表現が可能です。映像制作は企業・商品のイメージに合わせて撮影を行い、約3分ほどの完全オリジナルのプロモーションビデオを制作いたします。できたムービーは、HPやYouTube等で公開して宣伝したり、データをスマートフォンに入れておくとにより、異業種交流会やイベント等でパソコンがなくても、気軽にムービーを見せる事も可能です。
■大切にしている思い・戒めの言葉
今日できる事を、明日に延ばさない。
自分の欠点や短所・足りない部分を第三者的に分析して改める。
自分の体調はどうなのか?を常に念頭に置きながらムリをする。
悩み・疑問に引きずられ、停滞期に入る前にアクションを起こす。
前向きで向上心のある人たちとの交流を広げて、自分への力・刺激に変える。
どんなにツラくキツくても言葉に出さず心で叫ぶ。
自分を見失わないように、人と自分を比べず、自分ができる事にこだわる。
信じた事には一心不乱で突き進む。
切に願う。揺るがない強い気持ちは必ず道を切り開く。
■好きなこと・趣味・スポーツ
写真撮影
、デザイン関連の読書、本屋めぐり、うたた寝、散歩、フットサル、テニス、青汁、辛い食べ物、整理整頓
動物(犬、猫、爬虫類系)、ストレッチ、野球、格闘技、アップデート、バックアップ
■影響をうけた音楽
レッチリ、スリップノット、吉川晃司、COMPLEX、ソフトバレエ、アンセム、ブランキー、ラルク、ルパン三世
ends、ブルーハーツ、007、久石譲、カルミナ・ブラーナ、ネイチャー音楽全般 (敬称略)
■影響を受けたテレビ、マンガ、漫画家(画風)、アニメ、映画
永井豪(デビルマン)、モンキーパンチ(ルパン三世、一宿一飯、パンドラ)、藤子不二雄(ドラえもん、まんが道)
石森章太郎(仮面ライダー、キカイダー、サイボーグ009、HOTEL)、荒木飛呂彦(ジョジョの奇妙な冒険)
宮崎駿(ラピュタ、トトロ、耳をすませば、もののけ姫)、タツノコプロ(ヤッターマン、ハクション大魔王)
水島新司(ドカベン、球道くん、大甲子園)、寺沢武一(COBRA、TAKERU)、漫☆画太郎(珍遊記、まんゆうき)
ゲゲゲの鬼太郎、ギャートルズ、スヌーピー、ほのぼの君、ツルモク独身寮、サザエさん、北斗の拳、バビル二世
ウルトラマン、トムとジェリー、 闇金ウシジマくん、すごいよ!!マサルさん、デジタル所さん、コボちゃん、ゴジラ
ガメラ、ディズニー、バットマン、スポーン、007、裸の銃を持つ男、アイスエイジ、ジュラシックパーク (敬称略)
■影響を受けたアート
パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、M・C・エッシャー、マルク・シャガール、開田裕治、成田亨、草間彌生
佐伯祐三、寺越慶司、いわさきちひろ、はせがわいさお、シャグ、トム・エバーハート、ベルナール・ビュフェ
鶴田一郎、空山基、ジョン・アルホーグ、アルフォンス・ミュシャ、丁紹光、ジミー、堀内誠一、藤城清治 (敬称略)
■影響を受けたデザイナー
大貫卓也、佐藤卓、佐藤可士和、永石勝、松永真、寄藤文平、祖父江慎、佐野研二郎、原研哉 (敬称略)
お取り引き実績
KBC様 西部ガス様 docomo様 au様 TOTO様 BBIQ様 三菱自動車様 日本経済新聞様 西日本新聞様 白浜病院様
アイ・エム・ビー様 エバーライフ様 劇団パワーキッズ様 三好不動産様 NTT西日本様 劇団ショーマンシップ様
宅建協会様 総合メディカル様 FBS様 RKBミューズ様 ホンダカーズ様 テクニカル電子様 NEXT FORCE様 金龍様
高山質店様 和光舎様 セキュリティサイン様 新栄商会様 GPAコーポレーション様 福岡柔道整復専門学校様
福岡県歯科医師会様 サンナホル様 大村美容専門学校様 大林組様 スカイコート様 ワンワンパピードットコム様
ハッピーゴリラドットコム様 福岡県トラック協会様 ガンヨボウ様 ANA様 パチンコの玉屋様 GPA様 スグクル様
ゲンダイエージェンシー様 レオパレススポーツクラブ様
仕事内容:チラシ・パンフレット・リーフレット・イラスト・ポスター・ノベルティグッズ・3DCG・Web・flash制作
半生(反省)書き綴り
■私、大神浩二は、1973年11月5日、昼の3時くらいに
小倉記念病院
で誕生した。
私には6つ離れた兄がいる。なぜ、6つ離れているかというと兄が生まれた後に2人の子どもを授かったのだが、2人とも流産してしまった。絶対に子どもは2人欲しかった両親が諦めかけていた時に授かったのが私で、無事、生まれてきた時は「この子には運がある」と思ったそうだ。【浩二】という名前は、兄がつけてくれた。マジンガーZの操縦者の兜甲児のような強い男になって欲しいとの願いを込めてくれたそうだが、字画 姓名判断の関係で漢字が違うせいか、その願いは叶わず、身体は小さく気の弱い子どもとなった。
■幼稚園に入る前から絵を描くことが大好きだった。
毎日、絵を描いていたのを覚えている。その当時、ロッキーチャックという動物もののアニメが放送されていて、その影響で動物が大好きになり動物の絵ばかりを描いていた。
■
中間南幼稚園
に入学。幼稚園に入ってからも、絵を描くことが大好きだった。
幼稚園での忘れられない思い出は、ある日、絵を描いている私を見て先生が大笑いした。「そんなに変な絵かな?」と思っていたら、周りのみんなも大笑い。先生は私に「顔を洗っておいで。」と言った。トイレで鏡をみると両方の目の周りが真っ黒になっていた。その頃、私は画用紙におもいっきり顔を近づけて絵を描く癖があって、黒のクレパスで夢中になって描いているときに、黒のクレパスの粉が目に入り、かゆくなってゴシゴシこすっていたのだと思う。恥ずかしくて、教室に入れず、そっと覗くと「パンダちゃんが帰って来たぁぁ!」とクラスの誰かが叫んで、みんなまた大笑い。私は内気で目立つ子どもではなかったのだが、少しの間【パンダちゃん】と呼ばれ人気者になり、恥ずかしくも嬉しかったことを憶えている。そんな楽しかった幼稚園とも別れの時がやってきた。今でも先生の名前と顔ははっきりと覚えている。とても優しくて美人だった【はらだきよみ先生】。
■中間南小学校に入学。小学校に入ってからも、絵を描くことが大好きだった。
小学校低学年の頃は、プラモデルの【
ロボダッチ
】にハマり夢中になって集めた。それと同時に【
ビックリマンシール
】や【
まじゃりんこシール
】も流行した。小学校高学年ぐらいからは、キャプテン翼の影響でサッカーが大流行。1人1個はサッカーボールを持っていたと思う。アイドルでは【チェッカーズ】が大人気で、特に好きでもなかったのだが、みんなの仲間に入るために一生懸命、歌を覚えていた。それ以降、歌番組に出てくる様々なアイドルに周りのみんなは夢中になり、自分1人「みんな大人になっていく・・・」という孤独感を感じていた。それ以降、学校では自分の意志に関係なく、みんなが好きになるものを好きになるという【真似癖】がついていた。ただ唯一、自分の意志で生まれて初めて買ったレコードがある。それは忘れもしない小泉今日子の【風のマジカル】という歌で、映画ドラえもんの主題歌に使われた曲だった。とても良い歌で大好きだったが、B面の【渚のはいから人魚】の方が人気があってガッカリしたのを覚えている。※買った当時はそう思っていたが、何年後かに【風のマジカル】の方がB面だったと知り、ショックで寝込みそうになった。小学校時代のすべてを通じて、私の心の中には【藤子不二雄】【ウルトラマン】【ゴジラ】【仮面ライダー】が根付いていた。が・・・小学校高学年を境に周りのみんなは大人の思考へと変わっていき、話が合わなくなっていた。 そんな幼稚な私だったが絵の方では、絵画コンクールで賞を取ったり、図工の時間に描いた絵のほとんどは掲示板に貼り出されたりと、唯一自分を発揮することができた。最後まで精神的に成長することなく、小学校生活も終わりを迎えようとしていた頃、ショッキングな情報が飛び込んできた。中学入学に伴い、男子は強制で坊主にしないといけなかった。ずっと、前髪は目にかかり後ろ髪も長くして長髪だった私は坊主頭にとても悩んだのだが、生まれて初めて頭にバリカンを入れ、生まれて初めて自分の坊主頭を見た時には「意外と良いんじゃない!」と思ったのには自分でもびっくりした。
■中間南中学校に入学。中学校に入ってからも、絵を描くことが大好きだった。
特に漫画を描くことに夢中になった。初めは漫画の描き方など知らなかったので、大学ノートに漫画を描いては1人で「すごい!!」と喜んでいたが、私にとって悲劇の時代が始まった。成長とともに、周りのみんなの画力も伸びていた。小学校のころは、絵を描いてはいつも褒められていたが、ある日、友達に大学ノートに描いた漫画を見せると「もっとうまい人がおるよ」と言われた。その時、初めて絵を描いて褒められなかったのでショックを受けた。紹介してもらったその友達は、別の小学校にいた人で、中学にあがると2つの小学校が合併して一緒の中学校になって出会った人だった。その友達に漫画の話を切り出すと、自分の知らない漫画の話や漫画の描き方、漫画の道具の話を始めた。私には理解のできない話で「なんも知らんのやねぇ。今度、家に遊びにおいで!」と言われた。初めてその友達の家に遊びに行った時に見たその光景は今でも目に焼き付いている。家の造り的にそうなっていたのだが、もと美容室だった広い部屋が、その友達の部屋になっていて、その友達専用の部屋への入口があり、部屋の中には立派なソファーがあって、漫画道具(丸ペン・ゼブラペン・カブラペン・Gペン・羽ほうき・スクリーントーンなどなど)が全部揃っていて、その友達が描いた漫画も置いてあった。その時、私は自分の中で積み上げてきた【自分の絵を描く事への自信】のすべてを失った。その日をさかいに絵に関しても【真似癖】が始まった。中学時代は、その友達に漫画の描き方・漫画の道具・漫画に関するすべてにおいて、多大な影響を受けながらも、他の友達からも様々な出来事を真似した。どこの学校にもよくいる、クラスの人気者が好きなアイドルを真似して好きになったり、同じ音楽を聴いたり、仲間に入れてもらおうと気を引くためにウソを言ってしまったりと・・・完全に自分というものがなく「真似すんな!」とよく言われ、まさにコピー人間だった。そんな私も中3になり、進路を考える時期になっていたが、私は人ごとのように本当に何も考えず過ごしていた。運良く3年の担任が美術の先生で「通学は福岡の方で遠くなるけど、美術学校の体験入学に行かんか?」と言われた。無知な私は、絵を教えてくれる学校があるなんて思いもしなかったので「行きます!!」と即答した。「漫画家になれるかも!?」高鳴る気持を胸に体験入学を迎えたその日、絵を描く事に集中できる設備と先輩方の制作した展示作品に圧倒され、その学校に完全に引き込まれた。その体験入学で【デザイン】という初めて聞く言葉とこれからの人生を共にするとは、その時は知る由もなかった。中学卒業は、全く寂しくなかった。これから始まる新世界にすでに目が向いていて、【自分らしさを見つける!】という生まれて初めての意志が芽生えた。今思えば、私に素晴らしい道を進めてくれた中3の担任だった【はた先生】には心から感謝している。
■世界が変わった!香椎の
九州産業大学付属九州高等学校
デザイン科に入学。
北九方面の中間という町からの通学で、1人で電車に乗るのも初めてだった。入学何日か前に練習で、親と一緒に香椎まで電車に乗って、乗り換え等を間違えないようにメモを取った記憶がある。過保護に育てられた無知な私は、「いじめられないだろうか?」と心の中で不安に思っていたが、3日程でその不安は完全に消えた。不安どころか、初めて見る新しい光景と素晴らしい友達との出会いで、何か違う部分の自分が開けた気がした。なんとなくだが「僕もおとなになるのか?」と感じた。だが、無知な自分は変わっていない。初めの半月くらいは、普通定期券で快速に乗れることを知らず、快速に乗る友達を見て「みんなはお金持ちだなぁ・・・」と思っていた。その事を友達に知られ大笑いされたが一つ賢くなった。ある日、何も知らずに【ホームライナー】という電車に乗り、見回りに来た車掌さんに定期券を見せると【500円ですね!】と言われた時には、自分の無知さを改めて思い知った。
入学から約一カ月後、初めて天神という街に行った。天神に行く前の日に、両親は子どもっぽい私(その頃、身長が153センチくらいで坊主の伸びかけだった)が、天神でたかられるのを恐れ、財布に5千円。靴下に5千円を挟む形で「たかられた時は財布の5千円だけを渡しなさい」と小分けして行くように支持した。追い打ちをかけるように「天神は怖いから、なにかあったら大きな声を出して助けを求めなさい。」と言われ天神という街に恐怖した。そんな怖いイメージの天神という街は私の心を大きく変えた。すべてが華やかで夢のようだった。天神を歩いていると大人になった気がした。ショッパーズダイエーで食べた【
ふきやの大きなお好み焼き
】は今でも鮮明に覚えている!一緒に行った6人くらいの友達は個性的なファッションで、その後はファッションという世界にも目覚めた。
高校では、大神の神をとって【ガミ】または【ガミー】と言うあだ名で呼ばれた。生まれて初めて【大神】以外の言葉で呼ばれた。「本当の仲間ができた!確かに自分が存在していて、僕はこの友達の輪に入っている」という感覚がすごく嬉しかった!高校では様々な自分が見つかった。特に影響を受けたのは、アートの世界では【ピカソ】【ダリ】【ビュッフェ】【シャガール】、漫画・アニメでは【ジョジョの奇妙な冒険】【宮崎駿】【モンキーパンチ】の影響で、様々な絵のタッチが身につき、その中から自分を探そうと毎日悩んだ。
その当時はバンドブームで、クラスでもバンドを始める友達が増えた。初めてライブハウスに行った時は、あまりの凄さに身体が震えた。そんな時、友達に借りたビデオに衝撃を受けた「吉川がバーリバリかっこいいけ見てーん!!」と言われ渡されたのが、COMPLEXという
吉川晃司
と布袋寅泰のユニットのビデオで、正直なところ「吉川ーーー???」ってな感じでまったく興味がなかったのだが、家に帰って発狂した!!!「モ・モニカと違うぅぅぅぅ!!!!」その日から、家で吉川の歌い方や動きを必死で練習した。カラオケもこの頃、大流行していて、常に吉川とCOMPLEXを歌い、歌い方も意識した。この吉川への憧れの気持は、そのバンド名と同じく自分自身への数多くの【COMPLEX】を招いていった。背の低い自分。気の弱い自分。足の短い自分。優柔不断な自分、ひどい出っ歯な自分等・・・数多くの自分の短所に、真剣に悩まされた時期でもあった。
高校時代の思い出のバイトは着ぐるみのバイト(バイトは学校的には禁止だった。すみません)で、その当時の子ども番組で
ファイブマン
という戦隊もののファイブブラックという正義役をもらったのだが、背が低く身体の細い私に、「握手してください。」「写真を撮ってください。」と言ってくるこどもたちのお父さんの方が、明らかに身体が大きく強そうで、心の中で「こんな弱そうな僕が正義役で大変申し訳ない・・・」と思っていた。その点、アンパンマンの着ぐるみは、背が低い方が良かったので心から楽しめた。いただいた役は【
てんどんまん
】。てんどんまんの着ぐるみはアニメのイメージに近づけるため、身体が丸くずんぐりと見えるように布団のようなものを身体に巻き付け、その上からコスチュームを着て、頭には自分の頭の十倍以上はあるであろうマスクをかぶらないといけなかった。真夏の秋吉台サファリパークの屋外公演ではショーを演じながら意識が何度も飛び、死を覚悟した。その着ぐるみのバイトでの忘れられないエピソードがある。私はある日、アンパンマンの役をもらった。アンパンマンを演じることはどういうことを意味するのか?・・・それは色紙にサインを書かないといけなかった。私は自分で言うのもなんだが字がへたで汚い。一週間前から、新聞や週刊誌等のいらない紙を使って、マジックでサインの練習をした。何百回書いたか分からないくらい練習した。ショー当日、無事、ショーが終わった後に事件が起きた。小さな女の子が「アンパンマーーーン!!」と走ってきた。私はその子を受け止めてあげようと、その子に手を差しのべた瞬間、その子が、真後ろに吹っ飛んだ!「えぇぇぇ?????」私は何が起こったのか分からなかった。その時、子どもの誰かが「アンパンマンが子どもをいじめた!!!」と叫んだ!その瞬間、「ひっこめぇぇ!!!」とばいきんまんが私にキック!その後、ばいきんまんが人気者になった。奥に引っ込んだ私に「お前は何してんだぁ!!」と怒られた。まだ、意味の分からない私。状況はこうだった。笑顔で走ってくる女の子を受け止めようとしたのだが、自分の顔と、自分の顔よりもはるかに大きいあんぱんまんのマスクとの距離感を忘れ、普段の自分の感覚で、その子に向かったものだから、周りからはその女の子に思いっきりヘッドバッドを喰らわしたように見えたのだった。私は怖くなり、アンパンマンのスーツを脱いで、外に出てその子を探した。幸いにもその子は無事だった。わたしはその子に駆け寄って「さっきはごめんね!」と言った。その子は「あんた、だれ?」といった顔で私をにらみ返した・・・
色々な体験をして夢中に過ごしたあっという間の三年間・・・絵の勉強も頑張った!友達ともいっぱい遊んだ!彼女はできなかった・・・夢のような素晴らしい時間は終わりを迎えようとしていた。卒業式が終わり、仲の良い20人程の集団でご飯を食べに行き、アカトンボというゲームセンターで馬鹿笑いして最後まで笑顔で過ごした。香椎駅で、北九方面と福岡方面に別れる時に「またね!」という【高校生活でのまたはない】寂しい言葉に対して「また会おうね!」と言葉を返したのを覚えている。北九方面は約5人程になり、折尾駅で完全に1人になった。急に寂しくなり、家で両親が「卒業おめでとう」と言ってくれた。「ありがとう」と言葉を返したが本当に卒業したくなかった。その夜、楽しかった高校生活に感謝を込めて卒業アルバムの最後のページに、様々な感謝の気持ちをペンで書き綴りながら大号泣した。そのページはセロハンテープで止め、「懐かしいなぁ!と笑顔で思えるくらい大人に成長した時にテープを外して見よう」と誓った。
■高校卒業後は、
九州造形短期大学
へ。
造形短大は、男1割、女9割の学校で「なんか良い出会いがあるかも!!」とデザインの勉強だけではなく、恋愛の面でも期待がふくれあがり気持がウキウキしていたが、ふたを開ければ浮いた話もなく恋愛面では何一つ開花しなかった。一年の始めに開催された新歓コンパで、一つ上の先輩たちと意気投合して仲良くさせてもらった。仲良しの先輩グループの中にいた女性の家が、約8人グループのたまり場になって、みんなで泊まり込みで朝まで馬鹿話をした。親から高校までは泊まりを禁止されていたが、短大に入りそれは解禁され自由の身になっていた。そこで初めて酒とたばこの味をおぼえた。もちろん、同級生とも仲良しになった!週に一回はカラオケに行った。相変わらず吉川晃司。飽きもせず吉川晃司。カラオケではみんなに「また吉川ぁぁ??」と言われ続けた。今も吉川晃司一筋!!。強いて言うなら、今は【吉川】から【兄貴】という尊敬を踏まえての親しみを込めた呼び方に変わった。一年の夏には車の免許を取り、視野がまた広がった。短大時代のエピソードで、今の自分に大きな影響をおよぼした貴重な体験談がある。それは先輩とビリヤードに行った時に「ただ普通に勝負するのは面白くないからお金をかけよう!」と言われた。私は快くOKした。その先輩はとてもビリヤードがうまく、ワンゲーム100円かけていたのだが、あっという間に2500円くらいになった。その当時、2500円という金額は大きかった。私はいじけて「もうやめます・・・」と落ち込んだ口調で告げ、心の中で「困ったフリしたら許してくれるだろう」と思っていたが「今日のビリヤードは大神くん持ちね!あとの差額はちょうだいねぇ」と言われた。「今、手持ちがありません。」と言うと「残りは今度でいいやぁ!」と笑顔で言われ、人生の厳しさを知ったと同時に、その日以来「遊びも真剣に!!」という今まで甘い考えで生きてきた自分に【負けず嫌い】の気持が芽生えた。酒・タバコ・様々な遊びを覚えた楽しい短大時代。その中でも私にとって重大な出来事・決断だったのが、コンプレックスだった【出っ歯の矯正】を短大の2年の夏から始めた。矯正歯科で見てもらう前までは「費用は掛かるかもしれないけど、1年くらいで終わるだろう!」と軽い気持でいたが、矯正歯科で「これだけひどい歯並びを治すには5年は見てください。そして5年間はヘッドギア着用です。まずは矯正を始めるに当たり夏休みを利用して、親知らず上下左右4本と前歯から3本目の上下左右の歯4本の計8本を抜いてから、また来てください。」と言われた時は、目の前が真っ暗になったが・・・5年をかけてでも歯並びを治したかったので矯正を決めた。ヘッドギアにもやっと慣れ始めたころに短大生活も終わりを迎えようとしていた。「これから先、一生、学生生活はやってこない。これで終わり・・・」と大人になりきれない自分がそこにはいた。
■急降下していく人生
短大卒業後、先生に紹介していただいたマネキン会社に就職した。私を含めて社員3名の会社で、朝5時起きで通勤には2時間半かかった。「手に職を!」その思いを胸に、張り切っていたが、現実は工事現場への派遣や不本意な仕事が主だった。それから4ヶ月くらいその状態が続いていたので「マネキンの仕事はいつ来るんですか?」と聞くと、「こんな小さな会社では、マネキン制作の仕事はほとんど来ない・・」という衝撃の事実に完全に気持が折れ、マネキンを作ることなく即退社した。その後は、友達の紹介でガラス工房に入ったのだが、人間関係がうまくいかず人間不信に陥り、完全に心を閉ざした・・・それ以来、何をやってもうまくいく気がせず、友達から電話が来ても働いていない恥ずかしさで何度も居留守を使った。それからは夜になると家で大声を出して泣き叫んだり、気が狂ったように暴れてしまったりと精神不安定になっていた。わたしがおかしくなる度に母親が部屋に入ってきて、どうしようもない私をただただ見ていたのを覚えている。ある時、おかしくなった私を父親が思いっきり強く抱きしめて「おまえはどうしてしまったんか!!!」と泣きそうな声で叫んだのを覚えている。いっぱい心配をかけたが、どうしようもない意識の中で、どんなにおかしくなって暴れても「親への暴力だけは絶対にしない」と懸命に気持を制御して、他のものにやり場のない気持をぶつけた。それくらい無力な自分に追い詰められていた。ありがたいことに両親は私の気持ちを追い詰めなかった。しっかりと私の気持ちを支えてくれた。
■ひとすじの光がみえた
今思えば、そのころ鬱だったと思う・・・あまりにも学生時代が楽しすぎて挫折というものを知らなかった。そんな私を心配して「ゴールデンウィークを利用して(無職だから関係ないけど、気を遣ってくれたのだと思う)名古屋にいる兄の家に遊びに行っておいで!」と両親がすすめてくれた。それを聞いて、急に兄に会いたくなった。兄は私が小学6年生ぐらいの時に、東京の大学に行って、そのまま就職もずっと県外で家を出たままだった。年が離れていたため、兄弟らしい経験もなかった。それから何日か後に久しぶりに再会した兄は、やせ細った私を見てかなり心配していた。中学の終わりくらいに、中日ドラゴンズの監督をしていた星野仙一の男らしさに憧れ、中日ファンになっていた私をナゴヤ球場に連れて行ってくれた。その年はナゴヤ球場最後の年だったので最後に試合が見れて良い思い出になった。その時に6歳離れた兄と初めて、お酒を飲みながら、「兄弟げんかをしてみたかった」とか「弟の自分は年下ということを利用してずるかった」等の昔話や、兄の大学時代や社会人になってからの【一人で生きること】に対しての苦労話等を聞き、兄に比べて家で甘えてふさぎ込んでいる自分に対して「悩んでる場合じゃない!」と元気をもらい、兄には心から感謝した。
名古屋から戻り、完全に気持ちが吹っ切れた。「何か自分を生かせる事を!」と思っていた時に、デザイン業は手作業からMacというコンピュータへの転換期を迎えている事を知った。「一からやり直せる!」自分らしさを取り戻すために、an・DODA等の求人雑誌や、ハローワークに足を運び、Macを使ってのデザインの仕事を求めた。デザイン会社・印刷会社の面接で何度も落ちた・・・何度も何度も何度も何度も何度も何度も落ちた。 ・・・でも、気持を振り絞った!十何度目かの面接先ですべてをかけてこう言った・・・「タダでいいから働かせてください!」 ・・・やっと、社会復帰できた。
■
Mac
漬けの日々
運が良いことにデジタルへの転換期のため、会社にはMacを使いこなせる人はいないが、6台程のMacが導入されており、私にも一台与えて貰えた。皆、Macの勉強中で同じスタートラインに立っていることを感じた。その日から、まわりの人たちには負けない!と言う気持が根付いた。Illustrator5.0とPhotoshop3.0の操作のことを四六時中考えた。そんな時、DTPWORLDという本だったと思うのだが、漫画家の
寺沢武一先生
のデジタル漫画の記事が載っていた。Photoshopを使ってのデジタルイラストや3DソフトのSTRATAに衝撃を受けすぎて、4ページ程しかない記事を何度も何度も読んだ。Photoshopで絵が描きたくて、STRATAを覚えたくて、夜、寝付けなくなった。そこで親に胸の内を伝え親に借金をして、Power Mac8500/180(HD2GB/メモリはフルでいくつだったかな?)にライノタイプのスキャナ・MOドライブ240MB、キャノンのプリンター、モニターはナナオのフレックススキャン 17インチを購入。当時としては最強の環境で、全部で約120万程かかった・・・。最強マシンの目の前で「このデザインの世界からはどんなことがあっても、絶対に逃げ出さない!!!」そう誓った。
私の20代は、「もっともっと違うことを!」「もっともっと新しいことが知りたい!」と多くの会社を転々とした・・・ゲーム会社・デザイン会社・印刷会社等、次から次へと渡り歩いた。私の脳のほとんどをデザインへの欲求と、ただただ「周りの人間には負けたくない!」という気持が完全に心を支配していて、「頑張らないと蹴落とされる!」とまわりにいるデザイナーがすべて敵に見えていた。多くの会社で様々な技術を盗み、家ではコツコツと自分の作品を作る毎日を送っていた。20代のデザイナー人生は、社会人として生きる希望を与えてくれたMacが最高の仲間で、Macで得る技術のすべてが【自分にとって大事なすべて】と信じた。今、思えば人間的に大切な部分が欠落していて、人を信用しきれず誰からも慕われもしなかった。それは自業自得の結果だった。ただ、自分が利己主義のわがまま人間という自覚症状はしっかりとあった。そんな20代を猛スピードで走り抜け、30歳になった時にデザインへの気力を失ってしまった。20代で、自分のできる全ての情熱を出し切り、「のびしろはもうない」という虚無を感じた。そして何より、人間的に孤独だった。
そんな時にタイミング良く、高校の同窓会が開催された。二人の幹事の力で約8割くらいの同級生が集まった。気持が寂しかった時に、自分らしさを出せる同窓会には本当に救われた。久しぶりに心から笑った気がした。それを期に、また高校時代の友達との縁がつながった。その同窓会で再会した友達の紹介で、デザイン職とは正反対の営業職を始めた。それまでのオフィスにこもっての仕事から、外回りの仕事に変わり新鮮さを感じた。その会社でオフィスを覚え、企画書や見積書の制作に励んだ。入社して約半年後に告げられた別の営業所への移動が私の人生を変えた。そこで1人の女性と巡り会い、気持が惹かれ恋をした。「この人と結婚するかもしれない。」と直感した。
■ターニングポイント
付き合い初めて約3ヶ月後に、ご両親にお会いしたいと思い挨拶に伺った。彼女の両親への初めの印象は、お父さんは穏やかに接してくれたが、お母さんは少し怖い印象に感じた。彼女の家にはシェルティのみりちゃんという名の犬がいた。その犬が私にとても懐いてくれた。その姿をみて、初対面の人間には懐かないみりちゃんが、いきなりお腹をさすれと仰向けになった姿をみて、「この人なら大丈夫!」とご両親は私に対して好意を持ってくれたらしい。その日、彼女のお母さんが、「今の会社に入る前は、何の仕事をしていたの?」と訪ねてきた。今まで経験してきたデザイン業の話をすると「うちの娘と結婚を前提に考えているのなら、デザイン業で独立して頑張りなさい!」と突然言われた。デザインで独立なんて考えたこともなかったし、これから彼女を守っていかないといけない状況で、デザインの仕事のつながりのあてもない無謀な独立の話が信じられなかった。だが、その日以来、【デザイン業で独立】という言葉が、どうしても頭から離れなくなっていた・・・
そんなある日、のどの奥に違和感を感じた。病院に行くと、両サイドの扁桃腺が腫れ上がり、ノドを圧迫しているとのことで、急遽、扁桃腺切除手術をすることになった。入院中、扁桃腺切除後はノドが痛いだけで暇だった。ノートパソコンを持ち込んで、久しぶりにIllustratorを触った。なんか懐かしい気分になった。「もし、自分が独立したら?」なんてことを何気なく考えていたら、会社名【ゴッドピクチャーズ】が生まれた。名前のコンセプトは、人生で初めてもらった大切なあだ名である【ガミ】を生かしたいと思った。【神=ゴッド】。その言葉に私の大好きなイワトビペンギンのロッキーくんやデジタル所さんを生み出した
ポリゴン・ピクチュアズ
さんの【ピクチュアズ(ピクチャーズ)】をいただいて命名した。その後、ロゴまでできてしまった。ロゴデザインのコンセプトは、【幼少時代から絵を描くことが大好きだった。中学時代に漫画を描くことに夢中になった。その延長でデザインに目覚めた。描くという行為に共通するペンをイメージして、これから先も、お客さまに喜んでいただけるデザイン・自分の夢を描き続けたい】との思いから誕生した。退院する時にはパンフレットまでできていた。約10日間程の出来事。「これは運命なのか・・・」。覚悟を決めた。その会社には大変申し訳なかったが辞表を出すことにした。紹介してくれた友達にも申し訳なかったが事情を話した。偶然にも、その友達も同窓会の直後、会社を興していたのでお詫びに会社のパンフレットを作成して渡すと「すごい!応援するからデザインで独立して頑張れ!!」と言ってくれ本当に嬉しかった。
私の両親には猛反対された。それでも気持は変わらなかった。
「もう一度、自分の人生を変えてくれたデザイン業に情熱を取り戻す!」
■2005年2月1日、独立。ゴッドピクチャーズ始動。
この日から、今までお世話になってきたデザイン会社さんや印刷会社さんや新規飛び込みで、頭を下げて回ったが全く相手にしてくれなかった・・・。「これから先の人生は、人とのつながりを大切に生きていこう!」これまでのデザイン人生とは違う気持が芽生えた。
そんな中、ただ一社、
株式会社ペイジ様
は「独立したんかぁ!頑張れ!」と後押ししてくれた。こちらの会社は私にしては珍しく円満退社だった。本当に可愛がっていただいて私自身も唯一、心を開ける楽しい会社だった。仕事面でもそうだが、プライベートでも、みんなで飲みに行ったり、テニスをしたりと「こんなに楽しい会社があるんだぁ」と思っていたが、その頃は【スキルアップ】という言葉から自分自身逃れることができなかった。本当に悩んだ末に退社することを決断した。辞表を出すのに1ヶ月程悩み苦しんだ。退社当日の送別会には、ほとんどの社員さんやパートさんが忙しい中、参加してくれた。送別会が始まって早々、仕事では死ぬほど怒られ、とても怖かったけど、プライベートでは飲み等で大変お世話になっていた工場長に「お前が辞めると本当に寂しいのぉ・・・仕方ないんよのぉ・・・」と言われ、私はその言葉に、ひと目をはばからず大号泣してしまった。そんな私にびっくりした営業さんが「どうやったら大神さんが泣くか、みんなで色々考えとったのに、泣くの早すぎるやろ!!」という言葉にみんなが大笑いした。私はこの会社を辞めるということに対して「なんで俺はこの会社をやめるんだろう?」「みんなを裏切ってしまった・・・」との思いと、みんなのあまりの優しさに泣きやむことができなかった。横にいた営業部長が私の肩を抱いて「大神!!お前が決めた人生やろうが!お前が決めた人生やけ、こうやってみんなが頑張れ!って集まってくれとるんやろうが!!泣くな!!」と言ってくれた言葉を今でも覚えている。送別会が終わり、別れ際に参加してくれた一人に「これどうぞ!」と渡されたのが、約20枚程のポラロイド写真で、すべて泣き顔だった。その写真は今でも大事に持っている。そのペイジさんを通じて、デザインの仕事をいっぱい回していただいた。あてもなく独立して不安だった私の心に、一筋の光が見えたような気持ちで本当にありがたかった。その後もペイジさんを通じて、様々なジャンルのお仕事や、多くのお客さまと出会うことができ、不思議と軌道に乗った。独立して約一年後、私の人生を変えるきっかけをくれた彼女と結婚して私の妻となった。私はデザイン業でこの人を一生守ると誓った。
本当に色々あったが、そのすべてが今の自分に生きていると感じている。
苦しい時期を乗り越えることができたから、今はすべての出来事に感謝できる。
そして、なにより【人と人とのつながりの大切さとありがたさ】を心から実感している。
現在、私の周りには、独立して頑張っている仲間が増えてきた。
辛い時や、くじけそうになった時には、同じ境遇の仲間のことや、大切な人・お客さまのことを考えながら「好きな仕事をさせてもらってるのだから、もっともっと頑張れる!」と自分にエールを送っている!
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